Chiyoda City, Japan
1 Kitanomarukoen
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北白川宮能久親王 Prince Kitashirakawa Yoshihisa (1847-1895) second head of a collateral branch of the Japanese imperial family. He was formerly enshrined in Tainan-Jinja, Taiwan, under the name Kitashirakawa no Miya Yoshihisa-shinnō no Mikoto as the main and only deity. The nearby Craft Museum is worth a visit and is free for those over 65 years of age.
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A cool-looking 親王, probably a member of the Imperial family.
Great.
Good.
宮城事件にて、森師団長が戦争継続派の将校に惨殺された。終戦の土壇場の悲劇も忘れてはならない。今はは平和の象徴としての美しさをめでるのみ・
立派な馬上の銅像が、北の丸公園の端っこにひっそりと置かれています。
威厳のある銅像を間近で拝見する事が出来ます。
北白川宮能久親王は伏見宮邦家の9番目の王子で、1848年に誕生されました。 庶子だったので、上野の輪王寺に入って、問跡となり、修業をされていました。 平和な世の中ならそのまま身分の高い僧侶として生涯を終えられていたと思われます。ところが時代の流れにより、明治元年、上野戦争の時に江戸城無血開城に反対する彰義隊に総代将に担がれてしまいました。 江戸開城の後も榎本武揚が率いる幕府海軍の手引きにより、東北に逃れて、抵抗を続けていました。奥羽越列藩の盟主に擁立されたそう。 とうとうその年の9月に降伏し、謝罪状を提出したので、許されて伏見宮に復帰して還俗もしました。 更に北白川宮も相続。 その後、ドイツに留学。ドイツで語学や軍事の勉強をされました。その地の貴族の未亡人と婚約を発表したけれど、反対された為に破棄し、謹慎。 明治17年には陸軍中将、28年には近衛師団長になられ、軍人として順調でした。 明治28年、日清戦争の時に台湾に出征して現地でマラリアにかかり、亡くなられました。 馬上姿はとても躍動感あり、今にも嘶きが聞こえてきそうで、勇猛な像だと思います。
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